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(かくた・みつよ、作家)読売新聞 2009年5月4日
「どうしよう」まるで迷子

 訃報を聞いて真っ先に思ったのは、どうしよう、ということだった。清志郎の生の声が聴けない世界で、私はいったいどうすればいいのだ。
 私は音楽とまったく関係のない仕事をしているが、でも、小説家としてもっとも影響を受けた表現者は忌野清志郎である。
八六年に日比谷野外音楽堂でライブを見てから、ずっと彼の歌を聴き、彼の創る世界に憧れ、彼の在りように注目していた。
 あまりにも多くのことを教わった。ロックは単に輸入品でないということも、音楽は何かということも、日本語の自在さも、詩の豊穣さも、清志郎の音楽で知った。それから恋も恋を失うことも、怒ることも許すことも、愛することも憎むことも、本当にその意味を知る前に私は清志郎の歌で知った。
 二〇〇六年夏、清志郎が喉頭癌で入院したというニュースを聞いたときは、神さまの正気を疑った。でも彼は帰ってきた。
二〇〇八年の完全復活ライブで、今まで以上にパワフルな清志郎のライブアクトを見て鳥肌が立った。神さまだってこの人には手出しできないんだと思った。それで、信じてしまった。
このバンドマンはいつだって帰ってきて、こうして歌ってくれる。愛し合っているかと訊いてくれる。癌転移のニュースを聞いても、だから私は待っていた。完全再復活をのんきに待っていた。
 忌野清志郎は、変わることも変わらないこともちっともおそれていなかった。彼の音楽はつねに新しく、でも、つねにきちんと清志郎だった。不変と変化を併せ持ちつつ先へ先へと道を拓き、私たちは安心してその道をついていけばよかった。清志郎のことを思うと私はいつも魯迅『故郷』のラストの一文を思い出す。「もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」。道なき地上の先頭を、清志郎はいつも歩いていた。この人をすごいと思うのは、そのあとを歩くのが音楽にかかわる人ばかりではないからだ。あまりにも多くの人が、それぞれに清志郎の影響を受け、その影響を各々の仕事のなかで生かしている。
 訃報が流れた深夜、写真家の友人から電話をもらった。私はただの一ファンだが、この写真家はずっと清志郎の写真を撮っていた。私よりずっと深くかなしんでいるだろうに彼は「だいじょうぶ?」と私に訊いた。私と同世代の彼も、清志郎をいつも仰ぎ見て自身の仕事をしていた。「もう清志郎の声が聴けない、どうしよう」私が言うと彼も「どうすればいいんだろうね」と言った。深夜、私たちは迷子になった子どものように途方に暮れていた。きっと多くの人がそうだろうと思う。清志郎のいない世界で生きていかねばならないことに、心底途方に暮れている。このバンドマンが創ったものが失われることはない。私たちはこの先ずっと清志郎の音楽に触れその声を聴くことができる。わかっていても、今はただただ、どうしよう、と思うばかりだ。
  (かくた・みつよ、作家)
by POP_ID | 2009-05-05 15:24 | '00sあたり
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