森川欣信「GOTTA! 忌野清志郎」の著者(連野城太郎)/忌野清志郎に捧ぐ
>「お別れは突然やって来て すぐにすんでしまった」(ヒッピーに捧ぐ)

忌野清志郎が亡くなった。
あの盛大な葬儀から3週間。街はまた何事も無かったかのように動き出している。哀しみと寂しさが日ごと増して行く。日々ほとんど毎時間、折につけ彼の事を思い出す。清志郎の無念さを思うと苦しくなる。60歳、70歳、80歳、年を重ねて行く清志郎を見る事ができないと思うと残念でならない。「ロックはこうやればイイんだ」、そう言って彼が道を示してくれるはずだった。ずっとそう思って安心してた。今、僕はそんな道標を失くし途方に暮れている。

初めて清志郎を観たのはまだ彼がデビュー前だった。丁度、40年前。あれからずっと僕は彼に敬意を払って来た。日本語でロック・ミュージックをやる事、聴く事、そして作る事、それを僕に開眼させてくれたのはまだデビュー前のRCサクセションだった。デビュー後、「ぼくの好きな先生」がスマッシュ・ヒットした時の事もよく覚えている。大量に流れたスロー・バラードのラジオ・スポットもよく覚えている。武蔵野美術大学と明治大学和泉校舎の学祭で僕のバンドがRCサクセションのフロント・アクトをやったことも今では誇りに思う。事務所からほされメンバーの脱退、交代が相次ぎ、その活動がアンダー・グラウンドになった頃のライヴ・ハウスでの惨めな清志郎のパフォーマンスを覚えている。でも、僕らには縁があった。大学卒業後、就職したレコード会社で清志郎に再会する。「どん底だよ」って笑ったシャイな笑顔を覚えてる。そして、その日誘われ、後日出向いた屋根裏での新生RCサクセションに僕はなぎ倒されるくらい衝撃を受けた。挫折と絶望の底から音楽シーンをひっくり返そうとしていた彼のSOULを目の当たりに目撃した。それから、だんだん清志郎とは親しくなった。彼のポンコツのサニーで初めて家まで送ってもらった夜、彼がボソっと言った「この車が『雨あがりの夜空』のモデルなんだ」

1979年初頭~1981年年末まで僕はRCサクセションのディレクターを勤めた。曲作りのコード進行や歌詞の提案なんかして、しょっちゅう清志郎に鬱陶しがられていた。それでも僕は彼等の側にいさせてもらった。あの3年間はもの凄く密度の濃い時間だった。それこそ24時間、どうやっったらRCサクセションが世間に認められるのか、そればっかり考えていた。

やがて忌野清志郎が発明した日本語のロック「RCサクセション」は大ブレイクする。

その後、彼等が移籍することになり僕は清志郎と別れてしまう。

「もしも オイラが偉くなったら 偉くない奴とはつきあいたくない
 たとえそいつが古い友達でも むかし世話になった奴でも つきあいたくない」(つ・き・あ・い・た・い)

移籍する彼に僕は皮肉を言った事がある。この歌を聴いたとき僕に対して歌っているんだなって思った。彼は否定してたけど。

でも、ずっと彼のファンであった事に変わりはなくRCサクセションのコンサート・パンフレットなんかは何度か僕が書かせてもらった。尊敬する清志郎に頼まれ光栄の至りである。その後も僕が担当するアーティストに楽曲を提供してくれたり。その仮歌を入れにひょっこりスタジオに現れたり。そして、またカバーズやザ・タイマーズで仕事をしたり、その後も彼との友人関係は続いた。

僕が音楽の世界にいられたのは彼に育てられたからだと思っている。勿論、彼が能動的、積極的に僕を面倒見てくれた訳ではない。彼はそんなタイプの人間では無いし。僕は清志郎の背中をずっと見ていた。そして清志郎から学んだのだ。それだけ多くのものを彼は僕に与えてくれた。人前で寡黙な彼、その心は実に僕には有弁だった。いつでも僕は彼の側にいたかった。そしていつも彼の前で僕は緊張していたかった。

清志郎が亡くなって10日くらい経ったある日、僕は渋谷のんべい横町にあるMと言う店を20数年振りで訪れた。この店は懐かしい店だ。かつて僕はほとんど毎晩この店で清志郎の素晴らしさを酔いにまかせて説いていた。当時20代だった店主も今は40代後半である。その店主が僕に言った「一度だけ清志郎さんがここに電話して来た事がありましたよね」って。「えっ!!そんなことありましたっけ?」「そう、森川はいますかって。それで電話に出て、しばらく話してたじゃないですか」
僕はすっかりそんな事は忘れていた。なぜ清志郎がのんべい横町のMの電話番号を知っていたのだろう?きっと、僕が教えたんだろうけど。では、彼は何の用件で僕に電話して来たのだろう?僕らはその時いったいどんな話をしたのだろう?

たぶん、人は想い出の中の80パーセントくらいは忘れてしまっている。20パーセントくらいしか実際は覚えて無いのだろう。その20パーセントくらいはとても心に残る重要な事かもしれない。だが、実は忘れてしまっている80パーセントくらいの他愛無ない出来事の数々、これってその間柄に余裕があるゆえの証明なんじゃないかなってと思う。言い換えれば安心感みたいなもの。その何でも無かった膨大な日常の会話やありふれた出来事をあっさり忘れて行く事実、それは無意識な心のゆとりなんだと思う。「細かい事なんかいちいち覚えちゃいねえよ」ってくらい彼と一緒に過ごした時間。これからもずっと続いて行くはずだった彼と僕の気の置けない間柄。互いの信頼関係があったからこそ彼との想い出の80パーセントくらいは忘れてしまってるような気がする。

たとえ離れていても確かに僕らにはそんな絆があった。
だから、葬儀で竹中直人氏が言ったように僕も忌野清志郎の友人であったことを今は世界中に自慢したい気持ちだ。

「君と長い間過ごしたこの人生 80パーセント以上は覚えてないかも でも いいのさ 問題ない 君がいつもそばにいるから 毎日が新しい」(毎日がブランニューデイ)

僕が覚えている清志郎より忘れてしまっている清志郎の方がきっと何倍もある。
かつて清志郎がくれたFAXや手紙、写真や当時のスケジュール帳をいずれゆっくり眺めてその想い出を辿りたいと思う。
今はまだそれらを紐解く勇気(みたいなもの)がちょっと足りない。

死ぬなんて思ってもいなかったから。
どんな逆境の淵にいても、あいつは這い上がって来るヤツだったから。
http://www.office-augusta.com/cgifiles/public/president/gian/diary01.cgi
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by POP_ID | 2009-06-09 02:06 | '00sあたり | Trackback | Comments(0)
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