「新しい人は新しい音楽をする」
武久 源造 著

清志郎という稀代のミュージシャンの死を受けて、
今一度、この本をプッシュしておきたい。

>表現者として表現の自由を貫くということは、何かに守ってもらうことを放棄することであり、
明日はどうなるか分からない生活に身を委ねることを意味する。
自分を励ましつつ、今日もまた新たな音を紡ぎ出そうと楽器に向かう。
理由もなく希望がわいてくる。そんな自分の楽天性に苦笑いを噛みしめつつ。

>芸術を行うこと、それは「人間の心」を受け止めて表現することだ。そのとき、
私が音楽をしていると言うより、音楽が私を生み出している、音楽が私を作っていると
感じられる状態になる。
歌うこと、遊ぶこと、創造すること、愛すること。これらは皆一つの営みなのだ。

>今の音楽産業はいわばファミリーレストラン化している。

>バロック時代に最も好まれた表現上のテーマは対立概念のせめぎあいであった。
大きなものと小さなもの、崇高なものと醜悪なもの、キリストと反キリスト・・・。

>バロックの美学とは、相矛盾するあらゆるものを同時進行のうちに感じとり、生と死が
実は隣りあって存在していることを<美しい>と感じるデュオニソス的感性であった。

>確かにコンサートはそのある意味で宗教的儀式に似ている。この意味では、舞台上の
司式者である演奏家は、音楽作品と聴衆への無慈悲的愛によっていわば蒸発し音楽体験
だけがそこにある、という状態がコンサートの理想であるはずだ。
しかしそれは容易に達成されない。

>偏在的波動であるである音楽と合一することで、人は自分のいる場所を忘れ、
空間を忘れ、一瞬、自分自身であることも忘れる。それは臨死体験とも言える状態である。
しかし人は「死の匂い」を嗅ぎつつ行きられるほど強くはなれない。
反対に人は、自らの体の命運を超えることを欲し、永続性の証しとなるものを絶えず生み出
そうとしてきた。人間の煩悩のゆえ、音楽もまた不死の記号となり下がってしまうのだ。
さて、そうなると演奏会場はどうなってしまうのだろうか。そこもまた我らが人生同様、
相矛盾する欲求の、真実と虚偽の戦場となるのである。このため今日、演奏の場で
真の感動、すなわち良きマナが降り注ぐことは、残念ながら稀と言わねばならない。

(金言だらけで、紹介しきれない。一部省略して掲載しています。太字はPOP-IDにて。)

ファミレスには真に良質なお料理は期待できない。
クレームをつけようにも本当の作り手は現場にはいない。
現場の作り手は個の才能を発揮できない。
効率主義、能率主義、商業主義。

コンサートはいわば「ファッショ・ショー」
音楽の本質はそこにはない。
コンサートに「音楽」が存在してたのは、70年代が最後なのかもしれない。
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by POP_ID | 2009-06-13 15:47 | MUSIC | Comments(0)
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