2009年 06月 09日 ( 12 )
eliちゃんといっしょ。歌のおけいこ。
eli唄のワークショップ VOL 2
なんてね、イッツノットレッスン、イッツワークショップ。
英語よく分かんないけど、先生が偉そうなこという時間じゃないっぽい。
そろそろエリを補給する頃。
秋には遊びに行きたいところ。
[PR]
by POP_ID | 2009-06-09 22:07 | eli,shy&エージ | Trackback | Comments(0)
いけなくないさ。
last night a DJ saved my life
27年前の輝き。
音楽の変わらない輝き。
死んだりはしない。
名曲の命は人類の命。
[PR]
by POP_ID | 2009-06-09 21:58 | POP I-DAYS | Trackback | Comments(0)
2009年5月。
c0016991_19205992.jpg

[PR]
by POP_ID | 2009-06-09 19:21 | POP I-DAYS
69=ROCKな日、ROCKな人。
http://contents.oricon.co.jp/music/special/090609_01.html?cat_id=omr
1位=忌野清志郎
2位=矢沢永吉
3位=内田裕也
[PR]
by POP_ID | 2009-06-09 12:28 | '00sあたり | Trackback | Comments(0)
ビッグパパ。
なんだかなぁ・・・。
俺の過去のブログ読むと、清志郎については非常に失礼千万で、
ちょっと他人様には読ませらんない部分があるなぁ・・・。
(今さら直しゃあしないけれど。)

結局、故郷遠くに離れている「親父」みたいなもので、
そりゃ順番としてこの先、確実に悲しい日が来てしまうのだけど、
それを今、どうこうするわけにもいかず、日々を過ごしてしまっているようなもの。

清志郎から現実の血肉や遺伝子を受け継いだ訳ではないけれど、
精神的には同じくらいのウエイトのものをもらいました。

こんなに早く逝ってしまうなんて。
分かっていたら・・・・・・

親孝行してないなぁ・・・・。
[PR]
by POP_ID | 2009-06-09 03:34 | POP I-DAYS | Trackback | Comments(0)
佐野元春、清志郎を語る。(肉声コメント)
僕の友達の忌野清志郎が亡くなりました、僕達も哀悼の意を込めてしばらく黙祷しよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・
清志郎とは何回か僕はセッションをしてきてる。
80年代に一回、そして最近では別のFM曲ですけれども、
そこが主催したコンサートで一緒にセッションをした。
そん時はね外で戦争が起こっているときで、
僕と清志郎も、まぁミュージシャンとして言いたいことがいっぱいあったときだったんだよね。
だからバリー・マクガイヤのカバーをやったりとか、まぁ「明日無き世界」だよね。
それからラジオを通じた曲を二人で歌い合ったりとか、まぁそういうような内容だった。

清志郎は僕より五つか六つ上、だから上の世代のミュージシャンという印象でしたね。
そして彼がやってることもよく見てました。彼が書いている曲も聴いてましたしね。
僕の感想は、彼はやっぱり70年代のスタイルを最後まで貫いた人だなぁということですね。
だから彼の反抗のスタイルとか、そのソングライティングのスタイルとか、
それから世間に対するアティテュードだよね。
70年代のスタイルを最後まで貫いた人だなぁと思う。

僕はセンチメンタルにはなってないよ、人には寿命があるからね。
でもここから先、清志郎の新しい曲が聴けないのは残念だなぁと思いますね。

(公式サイト内、音声コンテンツから起こしました。)

夢の共演の模様はこちら。
[PR]
by POP_ID | 2009-06-09 03:07 | '00sあたり | Trackback | Comments(0)
宮藤官九郎/5月3日
>5月3日(日)
R2C2の客入れ音楽を変更する。4年ほど前にパルコ劇場で見た清志郎さんの『ワンマンショウ』が素晴らしかったとパンフに書いて、その勢いで今回の客入れはRCサクセションで行こうと思い、一曲だけ2・3sが入ったけど我ながら良い選曲だなあ~と開演前の30分間しみじみ、そして徐々にテンションを上げていたんだけど…。うーん…。まさか…。そう言えば初めてちゃんと挨拶したのもパルコの楽屋だった。差し入れで渡したゼブラーマンのフィギュアを次の日ORANGEのアンプの隣に飾って下さったそうです。そのパルコで今お芝居をやっていて昨日まで毎日RCを聴いていたのだが…。うーん…。ちょっと今は辛いかもしれない。あー…。ため息ばかりもれてしまいます。こういうの書くの苦手なんですけど、この日は忘れちゃいけない気がするので。本当にありがとうございました。

>5月10日(日)
昼のみ。飲みには行かず大人しく地元に帰る。近所で三宅伸治さんのライブがあるらしい。本番中にこんなにライブ見るのも、芝居がこういう内容だからかな。一旦帰宅し娘を連れて観に行く。アンコールで『雨あがりの夜空に』をやるのでギター弾きませんか?と誘われる。なんとホンジャマカの石塚さんも『スローバラード』を歌うらしい。本番中で青山のお別れ会にも行けなかったし、これは断れないぞ、と喜んで参加。そう言えば三年前、同じく三宅さんのライブに清志郎さんがゲスト出演した際、同じような流れで『雨上がり~』を弾いた。緊張しすぎてあの有名なリフを間違えてしまった。最後のセッションだった。今日はそのリベンジだ。D→D→G→D→A→G…と呟きながら弾く。今日は間違えなかった。このリフを考えた清志郎&チャボはやっぱすごいと弾きながら思った。
http://www9.big.or.jp/~otona/diary/0905_1.html
[PR]
by POP_ID | 2009-06-09 02:34 | '00sあたり | Trackback | Comments(0)
中川五郎(フォークシンガー/評論家)/The World According to Goronyan
>■ ブラディ・メリーズ、デビュー!? 2009年05月23日(土)
(前略)
終ってからは、多田さんと熊坂さん、そしてサンジャックの平林夫妻と一緒に軽く飲み(ぼくはまだ調子が悪い)、話題は自然と5月2日に亡くなった忌野清志郎さんのことになる(みんな清志郎さんの大ファンだ)。
 平林知己さんが清志郎さんへの熱い思いを語りに語り、多田さんは、密葬や葬儀でのマスコミの「傍若無人」ぶりを伝えてくれた。
 ぼくは滅多にテレビを見ないが、たまに見ると、ニュース番組も含めて、いろんな番組でのあまりにものひどさというか、無神経さ、そしてその狂躁ぶりにうんざりさせられ、長く見ていることはできない。
「清志郎さんの葬儀の様子を伝えるテレビは絶対に見たくなかった」と断乎として言う、平林さんの気持ちはぼくもとてもよくわかる。とんでもない悲しみの場を、ただの「取材対象」、「題材」、「ソース」として追いかけなければならないなんて、職業とはいえ、とてもいやなことだろう。そうならば、せめてそのことに対する「気のとがめ」や「恥じらい」、「後ろめたさ」を持ってほしいと思う。しかしブラウン管(古いね、今だと液晶かプラズマの画面ということか)の中でいかにも悲しそうな、あるいは深刻そうな顔をして喋る人たちからは、そうしたことがまったく感じられない。これはいったいどういうことなのだろう?

>■ 酒と涙の春一番2009 2009年05月21日(木)
(前略)
2日の夜、「ニュー・モーニング」が終って、友だちと会場近くの江坂で飲み、11時過ぎに寝屋川市の実家に戻ると、NHKのニュースで忌野清志郎さんが亡くなったことを告げていた。ぼくは清志郎さんとは直接会ったり話したりしたことは一度もないが、その歌を聞いたり、活動を見て、すごい人だと常々思っていた。「何て残酷なこと」。もっともっと歌いたかっただろうし、もっともっとすごい歌を作って、歌ってくれただろうに。とても大きな人を奪われてしまった喪失感に襲われ、やりきれない気持ちになる。

 翌3日からの春一番は、清志郎さんを追悼する思いが満ち溢れたものとなった。会場に集まったたくさんの人たちが清志郎さんを失ったあまりにも悲しい思いを共有し、清志郎さんと親しかったミュージシャン、一緒に活動をしていたミュージシャンは、自分のステージの中で彼への溢れ出る思いを思いきりぶつけていた。ぼくは遅れて会場に着いたので見ることができなかったのだが、5日に出演した三宅伸治さんの心中はどんなだっただろうか? よく春一番に駆けつけて演奏してくれたと思う。

 2009年の春一番の最終日6日の、最後の前の出演者は、春一番のプロデューサーの一人、あべのぼるさん率いるMagic ANIMALSで、彼らは壮絶なステージを繰り広げ、いちばん最後の出演者は、春一番のもう一人のブロデューサー、福岡風太さんが絶賛するハンバート・ハンバートで、夫婦での出産を経た後の、うんと大きく逞しくなったステージを見せてくれた。飛び入り参加した渋谷毅さんのピアノもとても美しかった。
 ステージの前の端の方に立って、かぶりつきでMagic ANIMALSやハンバート・ハンバートのステージを見ながら、ぼくは「今生きていること」や「ここからいなくなってもう歌えなくなってしまった人たち」のことを考え、生きる喜びと生きる悲しみとを改めて思い知らされ、気がつくとやっぱり泣いてしまっていた(歳を取ると涙もろい?)。
 ハンバート・ハンバートの歌ならよくわかるが、Magic ANIMALSで泣くなんて何だかおかしいようにも思うが、わかってくれる人は、絶対にわかってくれると思う。いい音楽は、人の心を激しく震わせ、優しい気持ちでつい涙腺を緩ませてしまうのだ。

http://www.goronakagawa.com/cgi-bin/diary.cgi?mode=new

More
[PR]
by POP_ID | 2009-06-09 02:32 | '00sあたり | Trackback | Comments(0)
Naoko(少年ナイフ)/合掌。
>Recording進んでます。
Filed under: From Naoko — Naoko. @ 11:32:27
昨日は新曲のレコーディングしました。とてもポップで楽しい作品になってます。乞うご期待!
さて、清志郎さんが逝去されたニュースに関して、ちょっと遅くなりましたがわたしの記憶を少し。学生の時、ナイフを結成する前のこと、知人のバンドに短期間、ベーシストとして参加してたことがあるんですが、そのバンドが関西ローカルのアマチュアバンドが演奏する番組に出ることになったんです。そのバンドは確かライブもしたことがなかったぐらい出来立てのほやほやだったと思うんだけど、バンドのリーダーが作ったデモテープがよかったんだろうな。そして番組に出られた。で、その収録日のゲストはRCサクセション。番組打ち合わせの時にわたしが提案した質問が採用され、本番で、わたしは清志郎さんに「どうやったら髪の毛が立つんですか?」という質問をしたんです。そしたら「興奮すると立つんだよね。」という答えが返ってきました。さすが。
そののち、数年前の大みそか、「Count Down Japan」フェスに出た時、楽屋のケータリングエリアで清志郎さんらしき人がおられたのでナイフのマネージャーが、あいさつしてその時のエピソードをお話しろって言うもんだから恥ずかしかったけど勇気を奮い起してその人物に声をかけたんです。そしたらその人なんと清志郎さんのそっくりさんだった!大恥かいてその年は暮れ、新年を迎えたのでした。
合掌。
[PR]
by POP_ID | 2009-06-09 02:21 | '00sあたり | Trackback | Comments(0)
森川欣信「GOTTA! 忌野清志郎」の著者(連野城太郎)/忌野清志郎に捧ぐ
>「お別れは突然やって来て すぐにすんでしまった」(ヒッピーに捧ぐ)

忌野清志郎が亡くなった。
あの盛大な葬儀から3週間。街はまた何事も無かったかのように動き出している。哀しみと寂しさが日ごと増して行く。日々ほとんど毎時間、折につけ彼の事を思い出す。清志郎の無念さを思うと苦しくなる。60歳、70歳、80歳、年を重ねて行く清志郎を見る事ができないと思うと残念でならない。「ロックはこうやればイイんだ」、そう言って彼が道を示してくれるはずだった。ずっとそう思って安心してた。今、僕はそんな道標を失くし途方に暮れている。

初めて清志郎を観たのはまだ彼がデビュー前だった。丁度、40年前。あれからずっと僕は彼に敬意を払って来た。日本語でロック・ミュージックをやる事、聴く事、そして作る事、それを僕に開眼させてくれたのはまだデビュー前のRCサクセションだった。デビュー後、「ぼくの好きな先生」がスマッシュ・ヒットした時の事もよく覚えている。大量に流れたスロー・バラードのラジオ・スポットもよく覚えている。武蔵野美術大学と明治大学和泉校舎の学祭で僕のバンドがRCサクセションのフロント・アクトをやったことも今では誇りに思う。事務所からほされメンバーの脱退、交代が相次ぎ、その活動がアンダー・グラウンドになった頃のライヴ・ハウスでの惨めな清志郎のパフォーマンスを覚えている。でも、僕らには縁があった。大学卒業後、就職したレコード会社で清志郎に再会する。「どん底だよ」って笑ったシャイな笑顔を覚えてる。そして、その日誘われ、後日出向いた屋根裏での新生RCサクセションに僕はなぎ倒されるくらい衝撃を受けた。挫折と絶望の底から音楽シーンをひっくり返そうとしていた彼のSOULを目の当たりに目撃した。それから、だんだん清志郎とは親しくなった。彼のポンコツのサニーで初めて家まで送ってもらった夜、彼がボソっと言った「この車が『雨あがりの夜空』のモデルなんだ」

1979年初頭~1981年年末まで僕はRCサクセションのディレクターを勤めた。曲作りのコード進行や歌詞の提案なんかして、しょっちゅう清志郎に鬱陶しがられていた。それでも僕は彼等の側にいさせてもらった。あの3年間はもの凄く密度の濃い時間だった。それこそ24時間、どうやっったらRCサクセションが世間に認められるのか、そればっかり考えていた。

やがて忌野清志郎が発明した日本語のロック「RCサクセション」は大ブレイクする。

その後、彼等が移籍することになり僕は清志郎と別れてしまう。

「もしも オイラが偉くなったら 偉くない奴とはつきあいたくない
 たとえそいつが古い友達でも むかし世話になった奴でも つきあいたくない」(つ・き・あ・い・た・い)

移籍する彼に僕は皮肉を言った事がある。この歌を聴いたとき僕に対して歌っているんだなって思った。彼は否定してたけど。

でも、ずっと彼のファンであった事に変わりはなくRCサクセションのコンサート・パンフレットなんかは何度か僕が書かせてもらった。尊敬する清志郎に頼まれ光栄の至りである。その後も僕が担当するアーティストに楽曲を提供してくれたり。その仮歌を入れにひょっこりスタジオに現れたり。そして、またカバーズやザ・タイマーズで仕事をしたり、その後も彼との友人関係は続いた。

僕が音楽の世界にいられたのは彼に育てられたからだと思っている。勿論、彼が能動的、積極的に僕を面倒見てくれた訳ではない。彼はそんなタイプの人間では無いし。僕は清志郎の背中をずっと見ていた。そして清志郎から学んだのだ。それだけ多くのものを彼は僕に与えてくれた。人前で寡黙な彼、その心は実に僕には有弁だった。いつでも僕は彼の側にいたかった。そしていつも彼の前で僕は緊張していたかった。

清志郎が亡くなって10日くらい経ったある日、僕は渋谷のんべい横町にあるMと言う店を20数年振りで訪れた。この店は懐かしい店だ。かつて僕はほとんど毎晩この店で清志郎の素晴らしさを酔いにまかせて説いていた。当時20代だった店主も今は40代後半である。その店主が僕に言った「一度だけ清志郎さんがここに電話して来た事がありましたよね」って。「えっ!!そんなことありましたっけ?」「そう、森川はいますかって。それで電話に出て、しばらく話してたじゃないですか」
僕はすっかりそんな事は忘れていた。なぜ清志郎がのんべい横町のMの電話番号を知っていたのだろう?きっと、僕が教えたんだろうけど。では、彼は何の用件で僕に電話して来たのだろう?僕らはその時いったいどんな話をしたのだろう?

たぶん、人は想い出の中の80パーセントくらいは忘れてしまっている。20パーセントくらいしか実際は覚えて無いのだろう。その20パーセントくらいはとても心に残る重要な事かもしれない。だが、実は忘れてしまっている80パーセントくらいの他愛無ない出来事の数々、これってその間柄に余裕があるゆえの証明なんじゃないかなってと思う。言い換えれば安心感みたいなもの。その何でも無かった膨大な日常の会話やありふれた出来事をあっさり忘れて行く事実、それは無意識な心のゆとりなんだと思う。「細かい事なんかいちいち覚えちゃいねえよ」ってくらい彼と一緒に過ごした時間。これからもずっと続いて行くはずだった彼と僕の気の置けない間柄。互いの信頼関係があったからこそ彼との想い出の80パーセントくらいは忘れてしまってるような気がする。

たとえ離れていても確かに僕らにはそんな絆があった。
だから、葬儀で竹中直人氏が言ったように僕も忌野清志郎の友人であったことを今は世界中に自慢したい気持ちだ。

「君と長い間過ごしたこの人生 80パーセント以上は覚えてないかも でも いいのさ 問題ない 君がいつもそばにいるから 毎日が新しい」(毎日がブランニューデイ)

僕が覚えている清志郎より忘れてしまっている清志郎の方がきっと何倍もある。
かつて清志郎がくれたFAXや手紙、写真や当時のスケジュール帳をいずれゆっくり眺めてその想い出を辿りたいと思う。
今はまだそれらを紐解く勇気(みたいなもの)がちょっと足りない。

死ぬなんて思ってもいなかったから。
どんな逆境の淵にいても、あいつは這い上がって来るヤツだったから。
http://www.office-augusta.com/cgifiles/public/president/gian/diary01.cgi
[PR]
by POP_ID | 2009-06-09 02:06 | '00sあたり | Trackback | Comments(0)